2009年06月29日

行政市の人口は減少しているものの

これらの都市は年々、行政市の人口は減少しているものの、都市圏全体で見ると横這い又は増加している。反面、近年になって発展したサンベルトなどの都市は人口増加のため広域合併などによって市域を拡大したため、人口に反してダウンタウンが比較的小規模であるケースも見られる。例を挙げれば、フロリダ州のジャクソンビル市は都市人口は約75万人で、州内で一番多いが、都市圏人口で測るとわずか110万人に過ぎず、都市人口18万人のオーランド市の都市圏人口(約160万人)よりずっと小規模となる。他の例では(サンディエゴ、サンアントニオ、サンノゼ、フェニックス、コロンバス、ジャクソンビル、シャーロットなど。)

よって、アングロアメリカの都市を調べる時は、単に行政市の人口で見るより、都市圏の人口、拠点性やCBDの集積度などで都市規模を見るのが望ましい。

ラテンアメリカでは、古来より祭礼の中心地として、メキシコ及びグアテマラやアンデスとしてテオティワカンやテノチティトラン、クスコなどの都市が盛えた。
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大航海時代にスペインとポルトガルが侵略したため、これらの都市は破壊され、跡地はメキシコシティなどにキリスト教を中心とする植民都市となった。また、大西洋沿岸部に、ヨーロッパとの金やエメラルドの交易窓口としてカリブ海沿岸やブラジル、アルゼンチンなどに港湾都市(カルタヘナ、ブエノスアイレス、リオデジャネイロ、レシフェなど)が建設され、19世紀後半から20世紀前半にかけて、農作物の集散地と欧州への輸出拠点として、これらの都市は繁栄した。太平洋沿岸に築かれたリマなどの都市からはパナマ地峡を経てヨーロッパへ金や銀が運ばれた。

20世紀後半も、工業化により都市の成長は続き、サンパウロなどの千万人規模の都市が複数ある。アジアやアフリカと同様に、これらの都市も人口流入とスラムの形成が深刻である。

また、ラテンアメリカの大都市は、植民地時代の名残の残る歴史的な旧市街と、富裕層が集まる近代的な新市街に分かれている場合が多く、階級社会を象徴している。

2009年06月11日

エリック・バーンは、彼の理論を2冊の交流分析

エリック・バーンは、彼の理論を2冊の交流分析の本にて提唱した。結果として交流分析は、多くの心理学者から、通俗心理学であるとの批判を受けた。また、「Games People Play」という歌が、この批判に拍車をかけることとなった。
アジアの美術
よの付く言葉
スポーツのあゆみ
くの付く言葉
名犬マルチーズ
雨模様
猫ニャン
柴犬について
生命の誕生
りんごのほっぺ
版画
オークション
映画館
射撃
応用数学
トリックアート
証券取引所
乗馬
高血圧症
ゲートボール

同様に交流分析は、フロイト理論から逸脱してるということで、伝統的な精神分析コミュニティからも追放された。しかし、1970年代までに、簡単で堅苦しくない言葉と人間心理モデルにより、その概念と専門用語の多くは、折衷主義的心理学者の治療におけるアプローチ方法として取り入れられた。また同じく、交流分析は、グループカウンセリングや、個人の内面に焦点をあてる結婚、家庭におけるカウンセラーにも受け入れられた。

なお、交流分析を尊重する学者は、1964年にエリック・バーンと共に研究と認可のための協会、国際交流分析協会(ITAA)を設立しており、2006年現在、団体は今も活動中である。

ポップ交流分析 [編集]
エリック・バーンの一般的な言葉を用いた交流分析の紹介の能力と、一般大衆の書籍市場における交流分析の大衆化は、人気のある交流分析の教材、書籍を作り流行となった。

一つのポップ交流分析の例は、構造モデルを描いた漫画である。ここでは、P(Parent)が判断し、A(Adult)が熟考し、C(Child)が感じているというように描かれている。ほとんどの真面目な交流分析の教材は、専門家より一般消費者をターゲットとしているものも含めて、この過度な簡素化を避けている。

トマス・アンソニー・ハリスの1960年代後半の最も有名な本、「I'm OK, You're OK」は、幅広く交流分析を基にしている。根本的な相違といえば、エリック・バーンが全ての人の人生は、「I'm OK」というところから提唱されているのに対し、トマス・アンソニー・ハリスは、人生は「I'm not OK, you're OK」から始まっていると述べている。多くの交流分析学者は、トマス・アンソニー・ハリスは交流分析学者の考えている基本理念から逸脱しているものだと見なした。

2009年06月07日

ヨーロッパの小型車や日本の軽自動車を中心に

1970年代まではヨーロッパの小型車や日本の軽自動車を中心に2ストロークエンジンが数多く存在したが、排出ガス規制強化を原因に大幅に減少。本格的な4輪自動車では、1990年代初頭にトラバントが製造終了されたことでほぼ絶滅したと言える。日本を例に取れば、2007年現在、2ストロークエンジン搭載の国産四輪車は製造されていない。ヨーロッパでも事情は同様である。

二輪車においては、1980年以前には大排気量車にも搭載されていた。2000年ごろまでは主に250cc以下で採用されていたが、環境問題から4ストロークエンジンへの移行が進み、日本では平成18年度自動車排出ガス規制の全面施行により競技用車両以外の全ての2ストロークエンジン搭載車が消滅した。各国の他メーカーも概ね同様の状況にあり、4ストロークエンジンへの切り替えが世界的に進んでいる。主流はヨーロッパでモペッド向けに使用される例など、限定的なものである。
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また、動力船(船外機や水上オートバイ)では特性上2ストロークエンジンが主流であったが、近年は環境・騒音規制に対応する必要もあり、4ストロークエンジン(ヤマハMJ-160FXなど)や環境対応型の2ストロークエンジン(直噴式(ボンバルディエSEADOO 3D-DIなど)又は電子制御式燃料噴射装置と触媒の併用式(ヤマハ MJ-GP1300R))への転換が進んでいる。日本国内でも、琵琶湖では「滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例」(琵琶湖ルール)により、従来型2ストロークエンジンの使用が禁止(経過措置あり)されるなどの取り組みがなされており、従来型2ストロークエンジンの使用は減少していくものと思われる。

欧米ではチェーンソーや芝刈り機/刈払機のエンジンにも排気ガス規制が及ぶようになり、燃焼の制御が困難な従来型2ストロークエンジンの使用機会は少なくなってきている。

2ストローク特有の出力重量比の利点を活かしつつ、環境規制に適合させる為、直噴エンジンの開発が進められている。 また、2ストロークエンジンの搭載車の比率の高い東南アジアに於いては非営利法人による改造キットの供給が検討中である。[2]世界保健機関(WHO)は東南アジアと太平洋地域において大気汚染によって毎年、537,000が死亡していると報告している。1億台に及ぶ2ストロークエンジンのタクシーとオートバイが要因である

2009年04月24日

ヴィシュヌ

三神一体論では、3つの最高神の1つで世界を維持する役目があるとされる。

一般には、4本の腕を持ち、右にはチャクラ(円盤、あるいは輪状の投擲武器)と棍棒を、左にはパンチャジャナ(法螺貝)と蓮華を持つ男性の姿で表される。そのためチャトゥルブジャ(4つの武器を持つ者)という称号も持っている。

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チャクラは「スダルサナ」とも呼ばれ、万物を断ち切る程の威力を持ち、一切の無知を破る宇宙神の偉大な力の象徴といわれている。

メール山の中心にあるヴァイクンタに住んでいる。ヴァーハナ(乗り物)はガルダと呼ばれる鳥の王で、鷲のような姿をして描かれたり、鷲と人を合わせた様な姿で描かれる。

神妃(妻)はラクシュミで、ヴィシュヌの化身に対応して妻として寄り添っている。

ヴィシュヌ派の創世神話によると、宇宙が出来る前にヴィシュヌは竜王アナンタの上に横になっており、ヴィシュヌのへそから、蓮の花が伸びて行きそこに創造神ブラフマーが生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされている。

古くはリグ・ヴェーダにもその名の見える起源の古い神格で、世界を3歩で踏破する自由闊歩の神だった。その名はサンスクリットで「広がる」「行き渡る」を意味する√viSに由来し、恐らくは世界の果てまで届く太陽光線の神格化であったと考えられる。そのため後には太陽神アーディティヤの1人ともされた。最終的には他の太陽神スーリヤを取り込んだ。

しかし、リグ・ヴェーダでは、まだ特に重要な位置は持ってはいない。神話も、少数の讃歌を除けば、主要神インドラが悪と闘う際の盟友のひとりとして言及されている程度である。

後のヒンドゥー教の時代になって、英雄をその化身:アヴァターラ(後述)として取り込んで行くことで民衆の支持を集め、ついにはブラフマー、シヴァと共に三神一体(トリムールティ)の最高神の位置を獲得した。

10世紀前後に作られたカジュラホの寺院郡のいくつかで祭られているヴィシュヌの神像は、寺院を飾るインド的彫刻とくらべて、メソポタミアやエジプト的な印象を受ける。

10世紀以降に南インドでヴィシュヌに関して独自の儀式や教義が発達した。

2009年04月06日

レイ・チャールズ

レイ・チャールズ(Ray Charles Robinson, 1930年9月23日 - 2004年6月10日)はアメリカ合衆国・ジョージア州出身のR&B歌手でピアニスト。

盲目というハンディを背負いながらも、リズム・アンド・ブルースや、ゴスペル/黒人霊歌やジャズなど、黒人である自らのルーツを遡っていくような音楽活動の中で、自分の魂を歌うという「ソウルミュージック」の形を自らで実証し、「ソウルの神様」と呼ばれるほど、その方面でのカリスマとなった。
6歳の頃仲の良かった弟のジョージ・ロビンソンを亡くした。その9ヵ月後緑内障のために失明した。目が見えないというハンディを背負いながらもピアノを学び、また盲学校に通う。1947年にシアトルに移り、この頃クインシー・ジョーンズと出会う。初期の頃はレイ・ロビンソンの名で活動、この頃よりマリファナやヘロイン等の麻薬に手を出している。後に同名のボクサーがいる為、ミドルネームのレイ・チャールズに改名。自己バンドでツアーを行っているうちに、アトランティック・レコードより声を掛けられ契約する。1959年の「ホワッド・アイ・ セイ」が自身初のミリオンセラーである。人気を高める一方で、ゴスペルを大胆にアレンジしていたことから敬虔なクリスチャンからは非難されていた。

1959年にアトランティックとの契約切れを期にABCレコードと契約、1961年に代表曲の一つとなる「わが心のジョージア」を発表、ミリオンセラーを記録。一方でこの曲は大衆化してしまったと批判する者もいた。

20年近く麻薬を常用していたが、1965年に3度目の逮捕後、ロサンゼルスの更生施設に入所、ヘロインを絶つことに成功した。チャールズはジョージア州が行う黒人差別を反対、同州でのコンサートをキャンセルしたため、州はチャールズを追放していたが、1979年4月24日、ジョージア州議会は追放を撤廃、『Georgia On My Mind (わが心のジョージア)』を正式な州歌と定めた。1980年には映画『ブルース・ブラザーズ』(1980年)に楽器店店主の役で出演し、『Shake Your Tailfeather』を演奏している。また1985年にはウィ・アー・ザ・ワールドの収録にも参加している。

1989年に、サザンオールスターズの名曲「いとしのエリー」をカバーして日本で話題になる。この曲をカヴァーするに至る経緯は、元々サントリーウイスキーのCMソングとして日本の楽曲をカヴァーして欲しいという依頼がチャールズに舞い込んだことによる。幾つか提示されていた日本の楽曲の中で唯一気に入ったとされるこの曲のカバーが起用され、日本でヒットを記録することとなる。日本では2002年にもドキュメンタリー番組「いのちの響」に取り上げられている。

2004年にテイラー・ハックフォード監督の伝記映画『Ray/レイ』が公開され、彼を演じたジェイミー・フォックスはアカデミー主演男優賞を受賞した。また同時におよびアカデミー音響賞を受賞した。製作中に撮影現場で演技指導を行った際にジェイミーのあまりの演技力から「あんたは俺の後継者だよ!」と賞賛の言葉を送っていた。

しかし、2004年6月10日に肝臓病で死去。73歳だった。完成された映画を見ることは出来なかった。また、彼をリスペクトするアーティストによる「音楽葬」が行われたことも話題となった。2005年2月13日、第47回グラミー賞授賞式では、ノラ・ジョーンズとのデュエット曲「ヒア・ウィ・ゴー・アゲイン」が最優秀レコード賞となったほか、最優秀アルバム、ポップス・ボーカルやゴスペルなど計8部門で受賞した。
シングル [編集]
メス・アラウンド - Mess Around (1953)
アイヴ・ガット・ア・ウーマン - I've Got A Woman (1955)
ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー - Hallelujah, I Love Her So (1956)
ホワッド・アイ・セイ - What'd I Say (1959)
ベイビー・ドント・ユー・クライ - Baby Don't You Cry (1960)
ルビー - Ruby (1960)
わが心のジョージア - Georgia On My Mind (1960)
スティックス・アンド・ストーンズ - Sticks And Stones (1960)
がんばれジャック - Hit The Road Jack (1961)
ワン・ミント・ジュレップ - One Mint Julep (1961)
愛さずにはいられない - I Can't Stop Loving You (1962)
アンチェイン・マイ・ハート - Unchain My Heart (1962)
ユー・アー・マイ・サンシャイン - You Are My Sunshine (1962)
ハイド・ノア・ヘアー - Hide Nor Hair (1962)
ユー・ドント・ノー・ミー - You Don't Know Me (1962)
ユア・チーティング・ハート - Your Cheating Heart (1962)
ボーン・トゥ・ルーズ - Born To Lose (1962)
ケアレス・ラブ - Careless Love (1962)
打ちのめされて - Busted (1963)
泣かずにいられない - Take These Chains From My Heart (1963)
ドント・セット・ミー・フリー - Don't Set Me Free (1963)
ノー・ワン - No One (1963)
ピタリ命中 - Smack Dab In The Middle (1964)
マイ・ハート・クライズ・フォー・ユー - My Heart Cries For You (1964)
メイキン・ウーピー、パート - Makin' whoopee (1965)
クライング・タイム - Crying Time (1966)
レッツ・ゴー・ゲット・ストーンド - Let's Go Get Stoned (1966)
アイ・ドント・ニード・ノー・ドクター - I Don't Need No Doctor (1966)
トゥギャザー・アゲイン - Together Again (1966)
イン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイト - In The Heat of The Night (1967)
イエスタデイ - Yesterday (1967) - ビートルズのカバー曲。
エレノア・リグビー - Eleanor Rigby (1968) - ビートルズのカバー曲。
アメリカ・ザ・ビューティフル - America The Beautiful (1976)
エリー・マイ・ラブ - Ellie My Love (1989) - 「いとしのエリー」(サザンオールスターズ)のカバー曲。

ダイバ いそべ シーアル ミュート メドレー チェンジ プロミ らんぶー キンシ トラッ ライター リモート サモエー セーブル マットレス ピナツボ ママ 大莢種 ゾーン デーモン ラミネート かむかむ ユー わらび リュージュ ネーション ターバン プリス ザック ドラドン リロート かみのく トーク フェナ メンター マトン ステビア リペア スナップ ツイスト ズー シング おにぎり デタント ほくとし ファイ マダム セオリ フィット マガダ

2009年03月21日

1号御料車(3代)

現在の1号御料車は、昭和天皇の御乗用として、1960年(昭和35年)に国鉄大井工場で製造されたもので、1876年(明治9年)に製造された2軸客車の初代、1932年(昭和7年)に製造された2代目(現・3号)に次ぐ、3代目の1号御料車である。

車体は、軽量客車である10系をベースに、鋼体を厚くする等の保安対策を施した構造となっており、旧形客車とは違う平滑でシンプルな外観が特徴である。
チップ ドミナ シェルパ トースター ダフる日本 ぶんたん シンクロ ドラバ ミスジャ スフレ デネブ バラン フレスコ ドンマイ モロヘイヤ ハンド リムパック バルナ ジュンブ 有明の月 リバランス リフィル 聖護院 ハイカ デフレー スライム 宵月の宴 アシスト パイオニア ハルビ トータル パード サラダ サーチ恋道 チェリ エイトビー ミルト ユーティ ランド ディー ゲーセン 世界の窓 スト チアナ タントラ スタンス 宝船 ヘアー ブルドッ フリーサ

車内は、出入口(デッキ)・次室・御座所(天皇などが乗る場所)・休憩室・御化粧室・御厠(便所)・配電室となっている。御座所の天井は白いアクリル板の平天井で、その中には20Wの蛍光灯を80本使用した非常に明るい照明が取り付けられている。また、大きな窓が側面に3枚ずつあるが、このうち中央の1枚は電動で上下し、開ける事が出来る(パワーウィンドウ)。御座所内には豪華なソファの他、テレビとラジオがあり、もちろん冷暖房も完備している。

御座所の天井以外の内装については、和風調度品をふんだんに用いており、その時代における日本の最高級の車両製造技術と美術工芸の粋を駆使して製造されている。

御料車の外装は、深紅色の合成樹脂ラッカー塗装で、さらにワックスで磨き上げている。また、2本の金線が入っているが、これは本物の金箔を貼りつけている。

御座所の外側、開閉可能な窓の下には、紋章取付座がある。ここには、天皇が乗車する場合に限り、金色の天皇家の御紋章が取り付けられる。車両限界に対する御紋章厚み分の増嵩を考慮し、20系客車様の広幅車体は採用せず、車体下部の裾絞りのない垂直な側板形状となっている。

本車は、供奉車の460号・340号・330号・461号と固定編成を組んでおり、一般に「1号編成」と呼ばれている。これらの供奉車は、1931年(昭和6年)から翌年にかけて1号御料車(2代。現・3号)との組成用に製造されたものであるが、本車の落成とともに改装され、460号にディーゼル発電機を設置して20系客車に準じた交流600V/60Hzを供給する給電システムに改めている。

2005年(平成17年)、JR東日本は、1号編成に代わる新たな貴賓用電車E655系の新製を発表し、同車が2007年7月に落成したため、1号編成の今後の処遇が注目される。

供奉車 [編集]
供奉車(ぐぶしゃ)とは、お召列車が運転される際、随伴員(宮内庁関係者や警備関係者、鉄道職員など)が乗車する車両のことで、皇室用客車の一種である。

鉄道が開業した当初は、一般営業用客車の中から適宜選定して編成が組成されていたが、6号御料車が完成した1910年(明治43年)以降専用の客車が製造されるようになり、宮廷列車編成用車と呼ばれた。また、形式称号は一般用客車のものが付されていた。

供奉車が現在のような番号を付されるようになったのは、1928年(昭和3年)10月の鉄道省の車両形式称号規程改正の際で、11両が供奉車となっている。木造車のうち2軸ボギー車は100番台及び200番台、3軸ボギー車は700番台が付与されている。それ以降に製造された鋼製車は、300番台及び400番台が与えられている。

2006年現在、使用されている供奉車は、1号御料車と編成を組む4両で、いずれもJR東日本に車籍を有する。

木製車 [編集]
前記のように、御料車と編成を組む専用の供奉車が製作されたのは、1910年のことである。形態的には、大型に属する700号を除いて鉄道院基本形に属する。これらは1919年(大正8年)、一斉に濃緑色に塗り替えられて青車(あおぐるま)と呼ばれ、1932年(昭和7年)に鋼製の1号御料車(2代)が完成するまで使用された。それ以後は、一般用に格下げされ、多くは荷物車や事業用車に改造されていった。

ホイ5100(1912年8月・新橋工場製) → 100号
一等車。定員36人。車内は長手椅子。全長16.764m、幅2.705m、高さ3.721m、自重23.20t。
ホロ5555(1912年8月・新橋工場製) → ホイロ5180(1920年11月・大井工場改造) → ナイロ5180 → 120号
一・二等車。定員一等20人、二等20人。車内は長手椅子。二等席は肘掛けがない。全長16.777m、幅2.705m、高さ3.778m、自重23.63t。
ホイロ7453(1916年2月・大井工場製) → ホイロ5169 → ホイロ5181(1920年11月・大井工場改造) → ナイロ5181 → 121号
一・二等車。定員一等18人、二等30人。車内は長手椅子。二等席は肘掛けがない。全長16.828m、幅2.705m、高さ3.778m、自重25.03t。
ホイロ5350(1910年10月・新橋工場製) → ホイロ5150 → ナイロ5150 → 125号
ホイロ5351(1910年10月・新橋工場製) → ホイロ5151 → ナイロ5151 → 126号
一・二等車。定員一等24人、二等20人。車内は長手椅子。二等席は肘掛けがない。全長16.408m、幅2.692m、高さ3.759m、自重24.80t。
ホイロ7436(1915年8月・大井工場製) → ホイロ5152 → ナイロ5152 → 127号
一・二等車。定員一等20人、二等24人。車内は長手椅子。二等席は肘掛けがない。全長16.828m、幅2.705m、高さ3.778m、自重25.00t。
ナロフ5630(1913年3月・日本車輌製) → ホロハニ5997(1921年3月・大井工場改造) → ナロハニ5997 → 230号
ナロフ5631(1913年3月・日本車輌製) → ホロハニ5998(1921年3月・大井工場改造) → ナロハニ5998 → 231号
二・三等荷物車。定員二等11人、三等11人、荷重3t。車内は長手椅子。全長16.815m、幅2.705m、高さ3.778m、自重27.26t。
ホロハニ5995(1910年10月・新橋工場製) → ナロハニ5995 → 235号
ホロハニ5996(1910年10月・新橋工場製) → ナロハニ5996 → 236号
二・三等荷物車。定員二等11人、三等13人、荷重3t。車内は長手椅子。全長16.891m、幅2.705m、高さ3.759m、自重23.90t。
スイネ28110(1922年4月・大井工場製) → 700号 → スイネ27105(スイネ27100形) → マニ29529(1957年4月5日廃車)
一等寝台車。定員一等24人(寝台16人)、特別室1人(寝台1人)、喫煙室3人。全長20.028m、幅2.880m、高さ3.904m、自重34.80t。

2009年03月06日

オレゴン(USS Oregon, BB-3/IX-22)

オレゴン(USS Oregon, BB-3/IX-22)は、アメリカ海軍の戦艦。インディアナ級戦艦の3番艦。艦名はオレゴン州に因む。

オレゴンは1891年11月19日にカリフォルニア州サンフランシスコのユニオン鉄工所で起工し、1893年10月26日にデイジー・エインズワースによって命名、進水、1896年7月15日に初代艦長H・L・ホーウィソン大佐の指揮下就役した。

就役後オレゴンは、太平洋ステーションでの短期任務のための艤装が行われた。
アイス スノー ランブ トリック フレデ マーチ シュテム マイウェイ ショナリー トーゴ ミクシィ スロット キール ビターオ キニン バイテク スタチン マジソン ピンドル オスカー 夏のロ ティハリー シンフォ ピョン ウムドン オマーン ミートボガ トッポッ ニズム スタン ベンジャ ダイヤ ランマ 大正琴 ガザ二ア ダイマー コットン ハラシ 道のむこ ショア マルク だいとう クーポン ピューリ チダー キシリ アンゴ ゆかいな スター ハニー

米西戦争
オレゴンは1898年2月16日に乾ドックを出渠する。その前日、ハバナ湾でメイン (USS Maine, ACR-1) の爆沈事件が発生し、スペインとの緊張が高まるとともに、3月9日にオレゴンはサンフランシスコに到着し弾薬を積み込んだ。3日後オレゴンは最も歴史的な巡航の内の一つとなる命令を受け取る。

オレゴンは3月19日にサンフランシスコを出航しペルーのカヤオに向かう。4月4日にカヤオに到着、南アメリカの周辺から東海岸への巡航で、スペイン軍との切迫した状況における最初の給炭作業が行われ、数日後に出航した。艦長のチャールズ・E・クラーク大佐はチリのバルパライソには停泊せず、マゼラン海峡を通過することを決定した。4月16日にオレゴンは海峡に入るが、強風により岩の多い海岸線は見通しが悪くなり、一時的に危険な状態となる。ちょうど日没後に小島と暗礁の間に投錨して停泊、安全な夜を過ごす。17日の夜明け前に風は弱まり、オレゴンはフォワード岬からプンタアレナスに向かい、砲艦マリエッタ (USS Marietta, PG-15) と合流、東海岸へ向かう。

両艦は石炭を補給し、4月21日にリオデジャネイロに向かう。同海域にはスペインの魚雷艇がいると噂されていたため、両艦の砲手は戦闘態勢を維持していた。波と向かい風のため巡航は遅れ、4月30日までリオデジャネイロには到着しなかった。リオデジャネイロでオレゴンはスペインとの戦争状態に関する議会の宣言に関する報せを受け取る。5月4日にオレゴンは出航し、ブラジルのバイアに停泊後、5月18日にバルバドスに燃料補給のため到着する。24日にフロリダ州ジュピターに停泊し、戦闘態勢が完了したことを報告する。オレゴンは66日前にサンフランシスコを出航し14,000マイル以上を航海した。

ワシントン州ブレマートンで艦ドック入りするオレゴン、1896年記録的な航海は人々に称賛され、これを讃える歌も作られた。「オレゴンのレース The Race of the Oregon」はジョン・ジェームズ・ミーハンによって作られた。

Lights out! And a prow turned toward the South,
And a canvas hiding each cannon's mouth
And a ship like a silent ghost released
Is seeking her sister ships in the East.
When your boys shall ask what the guns are for,
Then tell them the tale of the Spanish war,
And the breathless millions that looked upon
The matchless race of the Oregon.
一方、航海では巨大な戦艦が様々な状態で多くの能力を発揮することを実証した。他方では、この巡航がパナマ運河建造の反対意見を全て押し流すこととなった。オレゴンの記録的な巡航では、パナマ運河の利用が可能であれば74日間の遅れが約3週間までカットされていた。このことはパナマで失敗したフランスの事業をアメリカ合衆国が買い取り、運河を完成させるのを説得するのに大きく役立つこととなった。

5月26日にオレゴンはキーウェストの海軍基地へ向かい、2日後にサンプソン提督の艦隊に合流、7月1日にサンティアーゴ・デ・クーバに到着し、艦砲射撃と3日のセルベラ提督の艦隊に対する攻撃を支援した。オレゴンはその奮戦で「マッキンレーのブルドッグ McKinley's Bulldog」の愛称で呼ばれ、その後ニューヨーク海軍工廠で修理を行い、1898年10月にアジア戦隊に戻る。

ポートランドでの停泊
解体
1956年日本で売却、解体される。鎖の一部は横須賀基地にて保存されている。

2009年02月17日

魔法、ひとつくださいな

ホワイトクラリティの第1作目となるファンタジー系恋愛アドベンチャーゲームで攻略対象となるヒロイン数は4人。予約特典として、デジタルコンテンツCD『魔法、もひとつくださいな。』が、さらにブランド公式WEBサイト上通信販売特典として、サウンドトラックとDVDリバーシブルジャケットも付属されていた。

エンディング数は4人の各ヒロインにつきハッピーエンドとバッドエンドが一つずつ、どのヒロインとも関係しない共通エンドが一つ、およびトゥルーエンドが一つ、計10。4人のヒロインいずれかのハッピーエンドを迎えると、タイトル画面の「おまけ」モードからプレイ中のCG画像や回想シーン、BGM音楽などを視聴できるようになり、さらにプレイ画面に各ヒロインからの好感度を表す「ぷちアイコン」が表示されるようになる。

都会から遠く離れた閑静な田舎町で、今は亡き祖母が営んでいた駄菓子屋「ひより」を継ぎ、白猫の「シュレ」と共にのんびりと暮らしていた青年「誠人」。普段は小さな子供しか訪れない彼の店に7月のある日、「凪穂」という年頃の少女がやってくる。店に入った凪穂は店主の誠人にいきなり「魔法、ひとつくださいな。」と声をかけてきた。聞けば彼女は「ひより」の入り口にあった「魔法有り□」という貼り紙を見て興味を抱いたというのである。

そう、実は誠人の祖母は魔法使いであり、その貼り紙は遠い昔魔法の生徒を募るために祖母が貼っておいたものだった。しかし、誰一人生徒などやってこなかったために店主の誠人でさえも、貼り紙の存在自体すっかり忘れていたのだった。

誠人にどうか魔法を教えてほしいと願う凪穂であったが、誠人自身は祖母からほとんど魔法など教わっておらずどうしてよいのかわからない。そのため最初は面倒に感じていたが、凪穂の熱心さに負け少しずつ魔法を教え始める。その後、「ひより」には謎の金髪美人「ユマ」や誠人の従妹「クーティ」もやってきて・・・。

久津 誠人(ひさづ まこと) (下の名前のみ変更可能)
本編の主人公。駄菓子屋「ひより」の主。物心付く前に他界した両親に代わって育ててくれた祖母・珠江(たまえ)を一ヶ月前に亡くし、猫の「シュレ」と共にのんびりと毎日を過ごしている。物事に無頓着で向上心がないマイペース派。立派な魔法使いだった祖母の血を引いているが、誠人本人は軽い物を宙に浮かす程度の魔法しか使うことができない。
鷹堂 凪穂(たかどう なぎほ) (声 - 北都南)
最近、誠人の住む田舎町に都会から引っ越してきたお金持ちの家の娘。町の学校に転入手続きを済ませた帰り道に駄菓子屋を訪れ、誠人と知り合う。その後、誠人に魔法を教わるため「ひより」に通い出すようになる。夢見がちな性格で魔法や妖精の存在を本気で信じており、その上世間知らずで他人を疑うことを知らない。礼儀正しく言葉遣いは丁寧だが、やや甘やかされて育ったためか料理などはできない。なお、凪穂のみ通常のハッピーエンドを迎えた後、もう一つのエンディングである「トゥルーエンド」を観るための選択肢が追加される。
久津・クローティーヌ・美和(ひさづ・クローティーヌ・みわ) (声 - 綾瀬はみる)
珠江の息子とフランス人の女性との間に生まれた少女。愛称はクーティ。誠人にとっては従妹に当たり、彼のことを「兄(あに)さま」と呼ぶ。誠人と違い、正式な魔法の教えを受けているためかなり高度な魔法が使え、「ぷち」という名の使い魔をも従えている。両親の仕事の都合でしばらくの間「ひより」に預けられることになっていたが、誠人はクーティ本人がやってくるまでそのことを知らなかった。清潔好きで、誠人の代わりに掃除・洗濯をこなしているが、極度の味音痴のため料理だけは苦手。
ユマリア・トルナトーレ (声 - 鞠杏樹)
凪穂が「ひより」を訪れた数日後どこからともなくやってきた謎の金髪外国人。愛称はユマ。世界各国を観光で旅してきたため、様々な国の言葉を話すことができるらしく、日本語も流暢。誠人のことが気に入ったらしく、「ひより」の隣にある空き地にテントを張り、勝手に居座ってしまった。露出度の高い服装からもうかがえるように、性格はかなり開放的、というよりずうずうしく、毎回のように久津家の食卓についている。また、性欲も豊富で誠人らにセクハラまがいの行為をすることもある。
シュレディンガー (声 - 常盤美咲)
誠人の亡き祖母、珠江の使い魔だった言葉を話す白猫。名前は「シュレーディンガーの猫」に由来している。愛称はシュレ。かなりの長生きであるらしく、頑固な性格で老婆のような言葉を使い、だらしない性格の誠人に説教をすることも多い。しかし、飛び跳ねているスーパーボールを見ると、子供のようにじゃれあわずにはいられなくなってしまう。普段は猫の姿だが、人間の少女の姿に変身することもできる。
プライス ルックス オレン クリーム スペキ バンク ふるさと ハナナ オリジナル トップトラ オーロラ ストロー 暮らし ギング フーテン ビバレッ スーパー ション プロット とびいろ 白梅便利 すその ヒヨド メゾソ 京いも ソウチク ハンド ブラック デュアル みやこ トリマー ハシッシ カプセ ドッグ レンゲ アドオン きつね パープル 赤いろうそく ファイト プロフ ファンファ タックス キャル イグル あまぎ コメント いなば 検索ゆずゆ ファッ

佐野 優太(さの ゆうた) (声 - 亜以)
内気でか弱い印象を持つ、幼い少年。ユマが現れた時期とほぼ同じ頃から「ひより」に通い始めている。
ぷち (声 - 亜以)
クーティの使い魔。丸い体に羽が生えている珍獣で本作のマスコットキャラクター。主人であるクーティには絶対的な忠誠心を持つが誠人への態度は悪い。

2009年01月28日

下関戦争

馬関戦争は、幕府による安政の開国(1854年)後も過激な攘夷政策をとっていた長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた、前後二回にわたる武力衝突事件である。
パラグラフ マンツ 東京ドド セダン キーボ オープナ ランドスケ フィギュア オシロ きゅうじ カオス トムソ ブック ゾンホルル うみがめ ピリン ココア ナイーブ デメリット ロバスト プレー けいこう マチネー メサ スクリー Sぎさん オフィビ ムスカリ スイーツ メタン デンパ アベバ 羽衣便り 五番街 パンケ じゃが 楽しむ トロイカ 万華鏡 サラダ ギネ バカンス ウォッ とよころ スタイロ ジャスト パワーシフト イクラ 紅の翼 レッテ

前段: 1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
後段: 1864年(元治元年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定し、仏 蘭 米の三国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は8月5日〜7日に馬関(現 下関市)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
寄せ集めの四国連合艦隊に完膚なきまでに打ちのめされた長州は、以後政策を180度転換して欧米から新知識や技術を積極的に導入、軍備軍制を近代化してゆく。そして同時期に薩英戦争で英国に完敗して同じような近代化路線に転換した薩摩藩とともに、倒幕への道を一気に進むことになる。

なお、今日では前段のことを下関事件、後段のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別することがある(ただし「下関事件」の用例については曖昧回避項目の「下関事件」を参照のこと)。

歴史上の「馬関戦争」とは後段をさす用語で、前段はその「原因となった事件」として扱われることが多い。

ただし今日では「下関戦争」という語が前後両段を併せた総称として使われている。またその影響で「馬関戦争」が前後両段を併せた総称として使われることもある。

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
ペリー一行の上陸嘉永6年(1853年)ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し幕府に開国を迫り、翌安政元年(1854年)幕府は日米和親条約を締結した(ペリー来航)。安政3年(1856年)アメリカの強い要求により、幕府は朝廷の勅許を得ることなく日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び、幕府の鎖国体制は完全に崩れた。

貿易の急速な拡大によって国内経済は混乱し、政情が不安となり幕府の開国政策を批判する攘夷の機運が高まった。京都の朝廷は開国に反対で、特に孝明天皇は外国人を極度に嫌っていた。このため幕府に不満を持つ攘夷派は朝廷の攘夷派公卿たちに結び付くようになった。これに対して、幕府大老井伊直弼は弾圧政策(安政の大獄)で応じたが、万延元年(1860年)水戸・薩摩脱藩浪士によって暗殺された(桜田門外の変)。この事件により幕府の威信は大きく揺らいだ。この頃、攘夷派による外国人殺傷事件も頻発し、諸外国はその都度、幕府から巨額の賠償金を取り立てていた。

後に倒幕の中心勢力となる長州藩は長井雅楽の「航海遠略策」による公武合体策が藩論であったが、文久2年(1862年)に長井は失脚し、中下級藩士を中心とした尊王攘夷が藩論となっていた。長州藩士は朝廷の攘夷派公卿と結びつき京都の政局の主導権を握るようになる。

同年9月、朝廷は勅使を江戸へ遣わし攘夷の実行を迫った。同3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が上洛。朝廷は従来通りの政務委任とともに攘夷の沙汰を申しつけ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し、諸藩にも通達した。

だが、攘夷の実行は諸外国との戦争につながり、とうてい実行できるものではなかった。攘夷期日の前日の5月9日には幕府は薩摩藩が起こした英国人殺害事件(生麦事件)の賠償金44万ドルをイギリスに支払っている。

長州藩の攘夷決行
攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戊丸、癸亥丸:いずれもイギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。

攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ベンプローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利能登は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったベンプローク号は周防灘へ逃走した。初めて外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。

フランスの通報艦キャンシャン号の被害23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ベンプローク号が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが振り切られ、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。

26日、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代からの長い友好関係があり、攻撃はされまいと判断していた。だが、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。メデューサ号は1時間ほど交戦したが死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。

米仏軍艦による報復
この時期のアメリカは南北戦争の最中で、軍艦ワイオミング号(砲6門)は南軍の襲撃艦アラバマ号の追跡のためにアジアに派遣されていたが、アメリカ公使の要請を受けて横浜に入港していた。アメリカ商船ベンプローク号が攻撃を受けたことを知らされたデービット・マックドガール艦長はただちに報復攻撃を決意して横浜を出港した。

米艦ワイオミング号の下関攻撃6月1日、ワイオミング号は下関海峡に入った。不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戊丸、癸亥丸を発見し、壬戊丸に狙いを定めて砲撃を加えた。壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。

もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、ワイオミング号の砲撃で砲台も甚大な被害を受けた。

フランス艦隊による報復攻撃6月5日、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号(砲36門)とタンクレード号(砲6門)が報復攻撃のため海峡に入った。セミラミス号は砲36門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。

米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。このため、長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成された。長州藩は砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。

京都の政変と長州藩の孤立化
禁門の変7月、前年に起きた生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めてイギリス艦隊が鹿児島湾(鹿児島市の錦江湾)に侵入。薩摩藩はこれに応じず、交戦となった。薩摩藩はかなりの善戦(薩摩側の民間人を含む死傷者9名に対してイギリス側の軍人死傷者63名)をするが、鹿児島城下(焼失1/10)の藩の工場や民家へのなどへの大きな被害を受けた。しかし、これによりイギリスは薩摩の戦力の優秀さを知り、徳川幕府側との交渉を避け薩摩との直接の和平を結ぶことになる。この和平により薩摩はイギリスよりの情報や武器の入手が容易になり、薩摩は更なる軍備の充実に努めることになる(薩英戦争)。

8月13日、三条実美ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔が下る(大和行幸)。これに呼応して大和国では天誅組が挙兵した(天誅組の変)。京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、18日に薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託してクーデターを起こし、攘夷派公卿は失脚し、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた(八月十八日の政変)。幕府は巻き返しにかかり、天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅した。

長州藩をはじめとする攘夷派の京都での勢力は後退し、志士たちは潜伏を余儀なくされた。元治元年(1864年)6月には池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害捕縛される。7月、孤立を深め追い詰められた長州藩は「藩主の冤罪を帝に訴える」と称して兵を京都へ派遣し、局面の一挙打開を図った。長州軍は強引に入京を試み、待ち構えた会津、桑名を主力とする幕府側と交戦して御所にまで侵入したが、御所の守りについていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけたことにより撃退され、惨敗を招く結果となった。(禁門の変)。

外交
長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通行不能となっていた。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有するのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。

だが、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。元治元年(1864年)2月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきていた。

日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意した。オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し4月に四国連合による武力行使が決定された。オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送る。だが、本国外務省は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送るが、この当時はイギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後となり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められることになった。

イギリスに留学していた長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による下関攻撃が近いことを知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れた事を現地で知った二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していた。

伊藤と井上は三カ月かかって6月10日に横浜に到着。オールコックに面会して藩主を説得することを約束した。オールコックもこれを承知し、二人を軍艦に乗せて豊後国まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然として強硬論が中心であり、徒労に終わった。

6月19日、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達する。

四国連合艦隊の攻撃
下関攻撃作戦地図.
四国連合艦隊による下関砲撃
イギリス陸戦隊の上陸戦闘7月27日、28日にキューパー中将(英)を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港した。艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻(砲164門)、フランス軍艦3隻(砲64門)、オランダ軍艦4隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦1隻(砲4門)からなり、総員約5000の兵力であった。また横浜にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機していた。

8月4日、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁はようやく海峡通行を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。

下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤根武人)など2000人、砲約120門であり、禁門の変のため主力部隊を京都へ派遣していたこともあって弱体であった。大砲の数が足りず、木製の砲をつくってダミーとすることもしていた。

5日午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。長州藩兵も応戦するが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は前田浜で砲撃支援の下で陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。

6日、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山縣有朋は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れる。だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。

7日、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲した。8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式の後装ライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。長州藩の死傷者は47人、連合軍の死傷者は62人だった。

講和
8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーリアス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れたと述べている。

18日に下関海峡の外国船の通行の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。

ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能なこともあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目であった。

この談判の際に四国連合側のすべての要求を受け入れた高杉が彦島の租借だけは断固として拒否し、高杉の努力によって彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話が有名だが、この話は当時の記録にはなく、ずっと後年になってこの交渉の時に長州側の通訳をした伊藤博文が述懐した話であり、真実か否かは不明である[2]。

戦後
禁門の変の勝利を受けて幕府は長州藩の攻撃の準備に取りかかった(第一次長州征伐)。京都と下関との二度の敗戦で戦う余力のない長州藩では保守派(俗論党)が主導権を握り、11月に禁門の変の責任者を処罰して幕府に謝罪恭順した。

12月、この俗論党政権に対して高杉晋作が奇兵隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。翌慶応元年(1865年)に高杉らは内戦に勝利し、倒幕派が長州藩の主導権を握るようになる。

下関戦争の敗戦を受けて長州藩は攘夷の不可能を知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動をおし進めることになる。

下関賠償金
長州藩との講和談判によって、300万ドルもの巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。イギリスはこれを交渉材料に幕府に兵庫、新潟の開港と江戸、大坂での外国人の居留許可を認めさせようとしたが、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。幕府は150万ドルを支払い、明治維新後は新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。

明治16年(1883年)2月23日、チェスター・A・アーサー米国大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁した。300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万5000ドルを得ていた。

実際の米国の損失は、米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル
長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
水夫への危険手当2000ドル
であった。

なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていた。結果、米国の損害は合計1万ドルに過ぎなかった。この賠償金は米国政府の公認を得たものでなく、弱小日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。アメリカ合衆国国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた。その実情を明治5年(1872年)、フィッシュ国務長官(Hamilton Fish)が森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである。日本では明治22年(1889年)、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成している。

2009年01月20日

ミニコンピュータ (mini computer)

ミニコンピュータ (mini computer) は、コンピュータの種類の一つ。
略称として「ミニコン」とも呼ばれた。

コンピュータがまだ黎明時代を過ぎたばかりの1960年代では、コンピュータという言葉はメインフレームのことを指していた。メインフレームは運用に大規模な設備を必要とする大型コンピュータであったが、これに対して研究室や設計室のような環境でも運用利用できる当時としては「小型」のコンピュータをミニコンピュータ (ミニコン) と呼んだ。実際の大きさは、小さめのミニコン本体で家庭用冷蔵庫の半分くらい、大きめミニコン本体なら家庭用冷蔵庫よりも大きいものもある。磁気テープ装置、拡張ハードディスク、各種入出力装置などを加えると、「ミニ」という言葉にそぐわないような規模になることもある。

欧米では単に "mini" とも呼ばれる。様々なコンピュータを巨大なマルチユーザーシステム(メインフレーム)から極小のシングルユーザーシステム(マイクロコンピュータまたはパーソナルコンピュータ)まで並べたとき、ちょうど中間に位置するマルチユーザーコンピュータを指した古い用語である。最近では、ミッドレンジシステム(IBMでの用語)とか、ワークステーションあるいはサーバと呼ばれる。

日本では、ミニコンピュータよりも先にオフィスコンピュータ市場が発達したため、ミニコンピュータとオフィスコンピュータは別のものとされてきた。一方、欧米ではミニコンピュータの中からオフィスコンピュータに相当するものが登場したため、上述のように中程度の規模のコンピュータを全てミニコンピュータと称する。オフィスコンピュータは業務用アプリケーションソフトウェアなどがベンダの側で予め用意してあり、ユーザが即座に運用開始可能な点が特徴である。

1960年代に登場したディジタル・イクイップメント社 (DEC) のPDPシリーズ(特にPDP-8)でミニコンピュータ (ミニコン) という分野が築かれ、PDP-8やPDP-11はミニコンの代表的なものとなった。

当初は、主に科学技術計算などの専門分野での演算業務や、工場などの各種機器や通信の制御を行うために利用されていたが、次第にハードウェア・オペレーティングシステム (OS) ともに仕様の標準化が進み、コンピュータのオープンシステム化・ダウンサイジング化に多大な影響を与えた。 ミニコンピュータのうち上位のものは「スーパーミニコン」と呼ばれる。

歴史

1960年代:起源 - 1970年代:市場の拡大
トランジスタ技術と磁気コアメモリ技術の使用によって可能になった「小さな」第3世代コンピュータを定義するために、「ミニコンピュータ」という用語が1960年代に登場し発展してきた。この用語は同時期のミニスカートや小型自動車(ミニカー)などと共に欧米で流行した。その形状は1つから数個の大型冷蔵庫程度のキャビネットで構成されている。一方、当時のメインフレームは部屋全体を占めるほどのサイズであった。最初に商業的に成功を収めたミニコンピュータはDEC社の12ビットのPDP-8であり、1964年に16,000ドルで発売された。

1960年代終盤には、ミニコンピュータに7400シリーズなどの標準ロジックICが使われるようになってきた。74181演算論理装置(ALU)がCPUを構成する部品として使われた。74181は4ビットのデータバス幅であり、いわゆる「ビットスライス」アーキテクチャが当時の主流であった。他にも7400シリーズにはデータセレクタ、マルチプレクサ、3状態バッファ、メモリなどがあって、CPUはこれらを組み合わせて構成されており、肉眼でそのシステムのアーキテクチャを知ることができた。その後1980年代にはミニコンピュータにVLSIが使われるようになり、ハードウェア構造は徐々に分かりにくくなっていった。

パーソナルコンピュータが1970年代から1980年代にかけて発展すると、ミニコンピュータは低能力のマイクロコンピュータと高容量のメインフレームの間の領域を占めるようになった。当時のパーソナルコンピュータはシングルユーザー向けの比較的単純なマシンであり、CP/MやMS-DOSといった単純なオペレーティングシステムを搭載した。一方、ミニコンピュータは高度なマルチユーザー・マルチタスクのオペレーティングシステム(VMSやUNIX)が使われていた。初期のミニコンピュータは16ビットマシンであったが、より高性能な32ビットマシンが登場するとスーパーミニコンピュータと呼ばれるようになった。

1980年代後半から1990年代:ミニコンからパソコンへ
ミニコンピュータの凋落は、安価なマイクロプロセッサベースのハードウェアの登場と、安価で容易に展開可能なLANシステムの登場によるものと言える。エンドユーザーは柔軟性のないミニコンピュータ業者や「データセンター」と呼ばれるIT部門への依存を嫌ったのである。結果としてミニコンピュータとダム端末は、1980年代後半にワークステーションとPC/AT互換機をネットワーク接続したシステムに置換されていった。

1990年代、x86マイクロプロセッサアーキテクチャで動作する様々なUNIX系オペレーティングシステムが開発されるに至って、ミニコンピュータからPCネットワークへの変化は決定的となった。また、Microsoft Windowsもサーバ向けに進化して、Windows NTでは基本的なマルチタスク機能などサーバに必要とされる機能が備わってきた。

マイクロプロセッサがより強力になってくると、メインフレームですらCPUとしてマイクロプロセッサ(すなわちシングルチップで構成されたCPU)を採用するようになり、メインフレームとミニコンピュータの区別も無意味になっていった(あくまでも性能および構成の観点での話である)。

DECはIBMに次ぐ2位の地位にいたこともある主要なミニコンピュータ製造業者であった。しかし、UNIXサーバやPCによってミニコンピュータ市場が侵食されると、DECだけでなくほとんど全てのミニコンピュータ業者が苦境に陥った。DECは1998年にコンパックに買収された。

ミニコンピュータがコンピュータ業界に与えた影響
パーソナルコンピュータやサーバのCPUやオペレーティングシステムは、物理的にもアーキテクチャ上もミニコンピュータの特徴を受け継いでいる。
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ソフトウェアの面で見ても、初期のパソコン用OSであるCP/MはDECのPDP-11のOSをマイクロプロセッサ向けに実装したものであった。MS-DOSもそれを受け継いでいる。Windows NT の設計チームは DECでVAX用のVMSを設計していた人物(デヴィッド・カトラー)に率いられており、UNIXからも機能が採用されている。

主なミニコンピュータ
CDC 160A (CDC) - CDC 1604 のI/Oプロセッサとして使われた12ビットマシン
PDP、VAXシリーズ (DEC)
Nova,Eclipse (データゼネラル|DG)
HP3000シリーズ (ヒューレット・パッカード|HP)
SPC-16シリーズ (ジェネラル・オートメーション|GA)
TI-9X0シリーズ (テキサス・インスツルメンツ|TI)
V-xxシリーズ (バリアン|Varian)
Level 6/DPS 6/DPS 6000シリーズ (ハネウェル-ブル)
System/3, System/34, System/36, System/38, AS/400 (IBM)

日本のミニコンピュータ
日本では、通信制御やプラント制御用としてよく用いられていた。日本の代表的なミニコンピュータには以下のものがある。

FACOM-230シリーズ (富士通)
HITAC-10/20シリーズ (日立製作所)
NEAC 3200シリーズ、MSシリーズ (日本電気)
初期のMSシリーズ(1桁台、2桁台)は16ビットマシン、後期のシリーズ(3桁台、MS4100シリーズ)は32ビットマシンである。但し、1ワード16ビットのワードマシンである。
TOSBACシリーズ (東芝)
MELCOMシリーズ (三菱電機)
OKITACシリーズ (沖電気)
MACC-7 (松下通信工業。現・パナソニック モバイルコミュニケーションズ)[1]
「?AC」、「?COM]という名前が多いが、これは「?AC」は「Automatic Computer」、「?COM]は「COMputer」に由来している。

日本のミニコンピュータはそれ以前から事務処理用として大型機や小型機が提供され、また大型制御用は米英国と提携ライセンス生産などを行なっていた。しかし匹敵する小型の制御用は無く、米国製を輸入して利用されていたPDP-8を、各社とも寸法や必要機能を参考に作っていった。技術的には大きな困難はなくその後の工場プラント等の自動化に広く貢献した。その後マイクロコンピュータへと世界的に移って行った。